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第17章【悲劇の交通事故 寝たきり生活】

オランダ帰国後、モスバーガー本社での報告会。
社長が「今度、食事でも行こうね。」と私たち(遊学生選抜者)1人1人に名刺を配ってくれました。
その後、本社に「社長が食事に行こうと言ってくれたので、約束しようとお電話しました」
と電話したのは私だけだと聞きました。
社長とはその後、何度かお食事をさせて頂いております。
e-kidsはモスバーガーに認めてもらうという大きな任務もありますね。
2002年11月の晴れた夜
トレーニングの帰りの私はバイクで家路についていました。
右側を走る車の、死角に入ってしまったようです。
突然左折してきた車が、ガツン!と私ををバイクごと巻き込みました。
ヘルメットがガリガリとアスファルトに擦られたのを覚えています。
痛かったのは右肩でした。
すぐに動かないほうがいいと感じました。
今まで痛いスポーツばかりやってきたから痛みがどんなものかは良く知っています。
けど、この時の痛みは今まで感じたものとは全然違いました。
やはり、生身の人間同士で生じる痛みと、機械が関与している痛みは全然違います。
「グリ!」
ちょっとでも起き上がろうとすると右肩の様子が変なのが分かりました。
冬だから革のジャケットとブーツを着用していて
擦り傷が一つも無かったのが不幸中の幸いかと思います。
ブーツのつま先の鉄がえぐられていました。
もしつま先部分に鉄が入っている安全ブーツじゃなかったら、
私の右のつま先は指が無かったかも知れないです。
結局、救急車で運ばれました。
右肩鎖間接脱臼と左手親指骨折との診断でした。
親は心臓があまり良くないので病院には親友にかけつけてもらいました。
3日間合宿でいなくなると実家には連絡しておきました。
さっきまで、トレーニングで一般人ではありえない重さのバーベルをあげていた私が、
一瞬の出来事で、まともに歩くことも出来ずに痛みに唸っています。
ジャケットをを脱ぐときの痛みは地獄でした。
3日間痛みと闘いながら腫れが引くのを待ち、手術の説明を受けます。
私が正常に話せる状態になったこの時に、親を呼び冷静に状況を飲み込んでもらいました。
この時、絶対に手術が必要だったのが、軽いと思われていた左手の親指でした、
右肩は手術しなくても自然治癒でも大丈夫と言われました。
ただしその場合、肩の形が変形したままで、
将来重いものが持ち上げられなくなる。
という条件つきでした。
即答で「右肩も手術します」
将来、トレーニングが出来なくなるなんてあり得ません!
右肩と左手親指の両方にワイヤーを埋め込む手術は6時間に及びました。
結局、任意でお願いした肩の手術の方が、
大きい筋肉を開くことになり手術後に地獄の痛みでした。
私の行った病院はスポーツ選手の患者に慣れていないようでした。
100キロの患者に痛み止めの薬なんて処方したことがないらしく、
普通の量しかくれません。そりゃ、効力切れて痛いです!
病院は患者が選ぶ時代ですね。
終いには、看護士さんボソっと一言!
「スポーツマンなのに痛がり過ぎ・・・」
痛がり過ぎって・・・(泣)
でもまぁ、痛がっていたのは確かです。
夜中ずっと唸っていました。本当に本当に痛かったです。
あれは辛かった。(涙)
看護士長さんが夜中に唸る私のベッドに来てくれて、「後は、少しずつ楽になるだけだから」
と言ってくれたのに涙ながらに「ほ、本当ですか」と呟いたのを覚えています。
更には、右側(肩)と左側(親指)の両サイドの腕を固定しているから何も出来ないんです。
本が読めないどころか、鼻の頭が痒くてもかけないんです。
辛かったです。
1ヶ月間の入院生活です。
めちゃくちゃ痛い。
これからどうなっちゃうの。
もう、イヤ!
いや?
病院にはたくさんの人が怪我や病気と闘っています。
中には、一生治らない怪我の人もいます。
時間がかかるとは言え私の怪我は治ります。
これは上を向いてまた強くなるためのチャンス、
初めての事を学べる修行だと思えました。
一瞬だけ、体の不自由な人の気持ちを体験して、社会的に弱いとされる人達を大切にしよう
と思えました。
少しずつ回復してきて、まずは歩けるようになりました。
普通に歩けるって素晴らしい!
3週間ぶりにシャワーを浴びることが出来ました!
普通にシャワーを浴びられるってなんて素晴らしいんだ!
私にとって、今まで感じたことのない「生きている有り難み」を学ぶ期間でした。
前向きになれました。
この事故後に出会う人達には、「え?そんな事故があったとは思えない!」
って思わせる体に復活する!と自分と約束をしました。
またキックボクシングのリングに立ってやる!も。
まだ生活の9割はベッドの上ですが、
そう目標を持てたのは今までの人生で少し強くなれたからなのかも知れません。
アメリカ
スイス
オランダ
日本
「俺が鍛えたのは体だけじゃないんだ!」と底力が出てきました。
ここで終われない。
親にプロテインを持って来てもらって、
看護士さんにシェイクをしてもらってベッドで飲み始めました。
腕は固定された状態ですが、
使える足を衰えさせない為に病院の階段の登り降りを始めました。
動く足を使ってストレッチや、キックの動きなど出来る事をやりました。
だましだまし、見た感じ普通に運動出来るようになるまでには6ヶ月かかりました。
違和感が取れるまでには8年かかりました。
自分で飛び込んで行ったスポーツの世界での辛さとは違う、
運命が私に与えた試練でした。
恵まれた身体で生きている感謝の気持ち。
障害を持って生きている人たちへの優しさ。
この事故が教えてくれました。
絶対にキックボクシングで復活する!
そう思いながらリハビリを続けました。
そのころ、トレーニング仲間に声をかけてもらいました。
「ニコラスが新しいチームで練習しているから、行ってみれば」
ニコラスとは、アンディフグに続く青い眼の侍。ニコラスペタス選手の事でした。
まだ完治していませんでしたが、ニコラスペタス選手に会いに行きました。
第17章「悲劇の交通事故」
最後まで読んで下さりありがとうございました。
窪田豊彦 184cm 104kg 27歳 交通事故後半年でトレーニング開始。
とよ先生まで後3年!
トレーニングも満足にできずに食べることでストレス解消していたのでかなり太りました。
左手親指にはワイヤーの入っていた傷跡。右肩には10センチ以上の手術の跡。
事故前とは違う体で復活できるのか。
事故からの復活が次回の話しです。