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第8章【アメリカンドリームの大きさに負けた日】

アメリカンフットボールでのケガは絶えませんでした。
 
これは気持ちの問題で、防具をつけて同じぶつかるでも、
「ぶつかりにいく」と「ぶつかられる」では、大きな違いがあります。
 
私はほとんど場合、後者だったと思います。
 
気持の弱い選手だったと今思っています。
(だから私のようになって欲しくないと伝えているのがe-kidsです)
 
 
ケガの中でも、2年生の時の脳震盪(のうしんとう)、
 
4年生の時の左足首捻挫は辛かったです。
 
 
 
脳震盪は「ここはどこ?私は誰?」の世界です。
 
気分悪いし記憶は飛ぶし今がなんだか良く分からない。
 
 
自分でも同じことを何回もドクターに言っているのが分かっているんだけど、
 
また同じことをくり返し言ってしまいます。
 
試合中、相手と一緒に倒れて後頭部を強打したのが原因でした。
 
と、後でビデオで分かりました。
 
 
10日くらい鬱っぽい状態が続きました。
 
 
 
もう1つの怪我「左足首、重度のねん挫」
 
結果としてこのケガが私のアメリカンフットボール人生を終了させました。
 
乗り越えられる強さがありませんでした。
 
 
4年生、9月の練習中。
 
私は正面の相手と相撲のようにぶつかって押し合いをしています。
 
隣でも全く同じ状況で相手と1対1で闘っている選手がいます。
 
そのチーム最重量の選手140キロが、
 
バランスを崩して隣りの私の方に倒れてきました。
 
左足首からグキ!と音がしました。
 
重度の捻挫で、次の日から私は松葉杖。
 
ところで大学のアメリカンフットボールのシーズンは12週しかありません。
 
そんな短い期間の為にトレーニングをして、
 
全てを出すべく9月にシーズンインします。
 
 
その捻挫は私の4年生最後のシーズンの2週目の練習中に起きました。
 
次の日からリハビリの日々。
 
普段でも2軍や3軍を行ったりきたりの私です。
 
 
捻挫は完治に2ヶ月はかかります。
 
リハビリが終わる頃、私の最後のシーズンも終わります。
 
 
 
私はこのケガを機に、
 
学生最後のシーズンにチームを去りました。
 
 
チームに機能せずに選手として属していることに耐え切れなかったからです。
 
情けないです。弱い人間だと思います。
 
 
 
ケガをしながらも、松葉杖をつきながらでもチームの雑用係としてなど、
 
一緒に行動して、最後までやりぬくことがどれほど価値のあったことか。
 
 
もしかすると、
 
それはスター選手になる事よりも人生で意味のあった事かもしれません
 
今そう思っても出来るのは後悔だけです。
 
 
 
当時の未熟な私はそこまで耐えられる強さが無く、このケガの後、
 
数週間チームに属しながらリハビリをしたものの、
 
最後にはコーチの反対を押し切り、チームを去りました。
 
 
私のアメリカでのアメリカンフットボールは幕を閉じました。
 
 
 
e-kidsで必死に伝えているのはこの時の後悔と反省の部分です。
 
「俺みたいな中途半端な人間になってはダメだ」
 
e-kidsは私の成功哲学を教えているように思われることがありますが、
 
全く逆で失敗や後悔の集大成でクラスを創っています。
 
「俺、もう一度頑張るから一緒に頑張ろう」って、
 
子ども達と一緒に今も夢を追っています。
 
 
 
シーズン最後のホームゲームの試合前。
 
毎年、4年生が1人ずつ名前を呼ばれて入場するセレモニーがあります。
 
通常、ホームゲームでは1軍の選手だけが名前を呼ばれて入場出来ます。
 
しかし、この日だけは4年生が全員名前を呼ばれます。
 
それは、4年間頑張り抜いた選手へのご褒美です。
 
 
私は自分が名前を呼んでもらえていたであろう、
 
その年のセレモニーをスタジアムの外から観ていました。
 
 
「チャド・シュロール」の名前が最後に呼ばれました。
 
チャドは私と同じ学年で入学して私よりも試合出場機会には恵まれなかった、
 
センター(オフェンスの真ん中で体当たりするポジション)の選手です。
 
私はたまに2軍に登録された事もありそんな時は、
 
遠征にも同行したり試合にも出場しました。
 
ずっと3軍の彼は、試合に出ることは一度もないまま4年生を迎えました。
 
毎週、試合前の練習で、3軍の役目であるスカウトチームに入っていました。
相手を想定して、自チームの1軍の相手をするグループです。
自チームの試合に出ない選手の担当ですが大切な役割です。
 
そしてこの日、
 
彼が選手として初めてそして最後にスタジアムのゲートを
 
1軍選手と同じように通りました。
 
 
「センター!チャド・シュロール!!!」
 
彼の名前が呼ばれた瞬間、
 
スタジアムが割れんばかりの歓声に包まれました。
 
 
私はそれをスタジアムの外で聞いていました。
 
私のアメリカンドリームが終わった瞬間でした。
 
負けて終わりました・・・
 
 
それから、大学卒業まで数ヶ月。
 
卒業はなんとかできるように勉強しましたが、
 
心の中は空白で目標を見失ってしまっていました。
 
1998年12月に私は大学を卒業出来ました。
 
 
 
卒業式。
 
周りは親族総出で写真撮影の中、
私の卒業式には親友1人だけが来てくれました。
 
 
その彼とは今でも親友です。
 
1999年1月。
 
アメリカでの生活を終え、帰国です。
 
さぁ、日本帰ってきます。次、どうしましょう!
窪田豊彦 184センチ102キロ
大学卒業。帰国。
「とよ先生」まで、たったの後7年!!!
卒業前の夏に一時帰国して就職活動なんかもしました。
大手の携帯電話の会社に内定をもらっていました。
けど、面接官の方と廊下ですれ違った時に
私からの挨拶にあまりにも小さい声で返事されたのが
とってもイヤで内定を断りました。
 
いろんな事がe-kidsのクラスに使われているんだ、と今振り返っています。
 
とよ先生の半生記 e-kids 10周年記念バージョン
第8章【アメリカンドリームの大きさに負けた日
最後まで読んで下さってありがとうございます。
ここから、急展開。
キックボクサーになります!ジェットコースター!お楽しみに♪
 
写真は怪我をする数週間前に取材してもらった地元の新聞です。
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「将来は日本の子どもにフットボールを教えるかも」と書いてあります。