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第2章【183cm 中学生時代】

町の不良「てめー、どこの中学だよ!」
 
私「ぼくまだしょうがくせいです」
 
町の不良「あ(汗)そ。大きいね」
 
な、小学校高学年を経て、時は中学生。
 
 
 
 
焼きそばでした。とにかく大盛りに作るのが得意(特異)
 
な父が作ってくれた焼きそばでした。10人前はあった。
 
 
私「こんなに食えるわけねーだろ!」
 
父「・・・」ばっちーん!(痛)
 
グーで鼻殴られました。かなりの衝撃で脳が揺れ、
 
 
この時です。
 
 
私の脳みそから「た・べ・も・の・を・の・こ・す」
 
という日本語の組み合わせが消えたのは。
 
 
今でも意味が分からないです。「食べ物を残す」って。
 
読めないです。はい。
 
 
「食べ物」は残さず全部食べるもの。
 
以上!
 
 
 
それから食べに食べて
 
身長160センチは2年間180センチになりました。
さて、柔道部が無かった中学校。
 
身長を生かせればとバレー部に入りました。
 
結構知られてないですね、私がバレーボール経験者ということ。
 
 
中学の部活は休みも多いので、
 
休みの日は柔道場に柔道を練習に行っていました。
 
 
 
偶然入ったバレー部。
 
これまた監督がスパルタでした。
 
常にカラーバット持っていて、
 
ボール落とす度にバッコンバッコンお尻殴られていました。
 
土のグランドで滑り込みのレシーブの練習。
 
バレーボールのかっこ良く飛びついてボール取る感じ、
 
あのプレイの練習です。
 
それのみの練習を外のグランドでやるから、
 
Tシャツ真っ黒ボロボロです。アゴ打って血だらけです。
 
20人くらいいた同級生の部員が、
 
中学3年生の時は私1人になっていました。
 
1人なんで自動的にバレーボール部キャプテンですね。
 
ここでの「俺1人!」な世界も今のとよ先生を創っていきます。
 
 
中学卒業に近い進路選択時。
当時、東京でバレーボールの1番強い私立高校から
 
推薦をもらえました。
 
 
推薦までもらっていた高校でしたが、
 
バレーボールに少し疑問を感じ始めていました。
 
 
それは当時の全日本のバレーボールの選手、
 
みんな体が細いんです!
 
 
 
そのころ、私は親に頼んで通販で筋トレマシンみたいのを
 
買ってもらって、家の前の空き地に近所の不良を集めて、
 
今思えばチビどものお遊びでしたが、
 
当時は自分たちなりに本気で筋トレをやっていました。
 
 
そんなころに、バレーボール雑誌で読んだ、
 
全日本選手の「つけちゃいけない筋肉が・・・」のインタビュー。
 
 
・・・
 
・・・
 
・・・いやだ!
 
筋肉は全部つけたい!
 
 
「このまま、バレーボールでいいのかな?」と、
 
ちょっと思い始めていました。
 
 
そう思ったころに友達に誘われて東京ドームへ見に行った
 
アメリカンフットボール「コカコーラボウル」
 
ヒューストン大学 vsアリゾナ州立大学を見て、
 
「かっこいい!」 と衝撃を受けます。
 
 
「筋肉すげーじゃん」と。
 
ルールも知らないのにとりあえず「クォーターバックやりたい!」
 
アメリカンフットボールへの憧れは形にはなっていないものの、
 
「バレーボールとはお別れだな」と、
 
決意が固まってきた中学3年生でした。
 
 
 
バレーボール入部が前提だった私立高校の推薦入学を断り、
 
柔道の有名な先生がいた都立の高校へ進学することにしました。
 
柔道は呼吸のようになっていたんです。
 
ずっと平行して続けていました。
 
 
柔道の先生が鍵で進学を決めた都立高校に、
 
アメリカンフットボール部が偶然あったことが、
 
私の人生を大きく変えることになります。
183 センチ 80キロ 中学卒業 
 
「とよ先生」まで後15年。
 
 
とよ先生の半生記第2章【中学生時代】を最後まで読んで下さり、
 
ありがとうございました。
 
次回は【高校生時代】に突入です。
 
お楽しみにしていて下さい♪
 
 
ここからはe-kids 11年目第2週の写真でお楽しみ下さい。
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